「姉上」
どこからか声が聞こえてくる。
セシリアは声の主を探して辺りに目をやる。
自分のいる廊下。そこから見える中庭。その向こうにある反対側の廊下。どこにも人影はない。
少し呆けていたらしい。考え事をするわけでもなく立ち尽くしていた自分に気づく。
サリムのせいだ。セシリアは嘆息した。
彼の異名や人柄は知っている。
前王から仕えているにもかかわらずまだ壮年と呼ばれる歳にさしかかったばかりであるという事実が
彼の並ならぬ手腕を表していることも。
その彼が、自分の発言を制止したしなめるのは当然のことと思う。
自分が同じ立場ならばそうしたであろうと思うとサリムを無駄に困らせてしまったような気がして申し訳なくなる。
でも…
彼の瞳の奥に一瞬見えた怯えと、そして期待の色を見てしまったから。
彼も現状に満足はしていないのだと見抜いてしまったから。
だからこそ立ち尽くしてしまったのだ。
この国への疑問を宰相ですら抱いているということがとてつもなく悲しかった。
「姉上!」
再び呼ぶ声にはっと気づく。今度こそ本当に考え込んでいた。
深呼吸し顔を上げる。
中庭を横切るように走っている渡り廊下の上のテラスから見慣れた人影が大きく手を振っている。
「トゥキア、そんなところで何をしているの?」
「ただの散歩ですよ。姉上こそそんなところでどうなさったんです?」
手を振り返したセシリアに、トゥキアと呼ばれた青年は人懐っこい微笑を浮かべた。
第3継承権を持つ彼はセシリアの弟だが、母は異なる。
その証拠にセシリアは金髪橙眼、彼は黒髪黒目である。母が東国人だったらしい。
その母はトゥキアを産んですぐ亡くなった。
「またどこかに出かけていらっしゃったのですか?」
テラスから飛び降りて(そんなことをする高さではないのだが)近づいてくる彼はどこか心配そうだった。
「え、えぇ…。でも今日はそんなに遠くへは…」
言いかけたがトゥキアの鋭い視線に口ごもってしまう。
「そうよ、トゥキアも一回一緒に行ってみない?ここでは見られないものがたくさん見られてよい勉強になるとおもうわ」
「私はいいです。姉上もあまり外になど行かないほうがいいと思いますよ。いい加減父上も気付いていると思いますから」
「トゥキア、黙っていてくれるって言わなかったかしら?」
城を出ようとしたところをトゥキアに見つかり、誰にも言わないよう約束させたのはもうだいぶ前である。
「もちろん約束どおり黙っていますよ。でも…」
一瞬ためらって続ける。
「でも姉上のそれを認めているわけではありませんよ。俺には市民に混じって何が楽しいのかわかりません」
「それはあなたが直接見ていないからよ。行けばわかるって言っているのに…実際彼らの生活はひどいものよ。」
「民など、軍が守ってやらねば生きていけぬ連中ではないですか?その見返りに軍と公家に見返りをよこすのでしょう?」
その言葉にセシリアは寂しげに眉を寄せる。
この弟が聡明なことは姉の自分が一番よく知っている。
だからこそ城の中での恣意的な教育による知識では知ることのできない、広い世界を見せてやりたかった。
見ればこの弟はわかってくれるはずだ。そう信じている。
「あなたは知らないだけなのよ…」
つぶやいたその言葉は風に流れて消えた。
簡単な別れの挨拶をして背を向ける姉に手を伸ばしかけてやめる。
もしその理由を聞かれてしまったなら答えられないことが解っていたからだ。
あなたがどこかへ行ってしまいそうだったから、なんて言えるわけがない。
あなたが変わってしまったような気がして怖いのですなんてなおさらだ。
王である父に反発を持っている、ただそれだけならば年頃の少女には普通のことだ。
しかし最近は城を脱走し、城下へ出かけることが多くなった。
そこで見聞きしているであろうことは父への疑問をさらに助長させている。
それが何を意味しているのかはわからない。しかしそれが自分にとって良いことではない、それだけは確かだと確信できる。
家族に会うときですら取次ぎを経ねばならない父や兄や他の王族・貴族とは違い、
セシリアとトゥキアは自由に会い、自由に話した。
先ほどのように通りすがりに話すこともしょっちゅうだ。
だからというわけではないがお互いのことはよくわかっているつもりだった。
いや、わかりたかった。
「トゥキア様、そろそろお客様のお見えになる頃合いかと」
侍従が呼びに来た。その声に我に返る。自分は相変わらず女々しい男だ。
「あなたは知らないだけなのよ…か…」
空を仰ぐ。
不安でたまらなかった。
グランディウス公国。
ラグルス大陸の中央にあるこの国はかつて遊牧民の国であった。
数ある有力民族の一つであるグランディウス族がそれらを統一したのが今から二百年ほど前である。
現在の王ルブラムで四代目となるこの国は他国に比して新しい。
白亜の城は優美と堅牢を誇り、城下の中心街は様々な店が立ち並ぶ。
しかし元来遊牧するしかなかった土壌は、当然農耕に向いておらず、国内の自給率は低い。
さらに、それらなけなしの食料のほとんどは公族や貴族のため中心街に集められていた。
その結果、街を離れれば、いや街の中でも一歩横道に入ると、
日々の糧に飢えた人々が肩を寄せ合って生きている光景に出くわすことになる。
その貧富の差はルブラム王の執拗な税の取立てによって一層顕著になっていた。
草原と遊牧の自由の国グランディウスは、時と共にその羽をもがれた哀れな国に成り下がっていたのである。
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