セシルの視界の端に駆け出すキルゼの姿が見えた。素早い数名が後を追う。
自分を逃がすため囮になろうとしたことは明白だった。
そうとわかっていても皆、女の自分より屈強な戦士のキルゼのほうを追いかけるであろう。
他の人が彼を追いかけ始める前に何とかしなくては。
「待ちなさい!」
セシルは制止の声を上げた。その場にそぐわない凛とした声に思わず兵たちの足が止まる。
「なんだ、おとなしく捕まる気になったか?」
さっと手で合図し、セシルを捕らえさせようとした男の手がこちらも途中で止まる。
その視線はセシルのかざした手元に吸い寄せられていた。
それはペンダントだった。手にかけられ、かざされている。
「ま、まさか」
誰かがうめく。
「下がりなさい。近衛ごときが私を捕まえようなどというのですか」
街灯の炎に照らされ、彼らの国を示す鷹の紋章が紅い光を放つ。
その紋章を持つことが許されるのがこの国でほんの数名であることを彼らが知らないわけがなかった。
「セシリア様…」
小隊長のつぶやきに兵たちが凍りつく。
「我が名はセシリア=グランディウス。先ほどの男は私の従者である。それを知った上でのこの狼藉ではあるまいな?」
「滅相もございません!」
多少蒼ざめた顔で言う。しかし膝は折らない。まだ信用していないことは明白だった。
それはそうだろう。公王に逆らう組織のアジトから公女が出てくるなどと、簡単に信用してしまうような近衛隊長はいない。
「あなた方の疑念はもっとも。私は今夜は忍び。皆が入っていくという家に何があるのかと戯れに入ってみたのだが…」
「遊びにもほどがある…と思われますが?」
「そうだな、私もそう思う。まさかこんなところだったとは…」
苦々しい顔をする。それを見て男は力を抜いた。
どうやら本当に公女のようだ。前々から公女のおてんばぶりは噂に聞いていたがここまでとは思わなかった。
しかし公女は公女である。そのような組織があることなど知らず、純粋な興味で紛れ込んだに違いない。
これだから箱入りは困る。何をしでかすかわからない。
「そうと知っていればこのような手荒な事、いたしませんでした。ご無礼をどうかお許し下さい」
言いながら膝を折る。部下たちもそれに倣った。
「許す。城まで警護せよ」
「はっ」
男達が立ち上がる。
「時にセシリア様、先ほどの従者はいかがいたしましょう」
問う隊長に彼女はまたもや苦々しい顔をする。
「放っておけ。私を置いて逃げるなど言語道断の所業。手のものに捕らえさせこちらで処罰を与えるゆえ」
「承知いたしました」
歩き出した公女に皆付き従う。一部は道に溢れている野次馬達を追い払い、城までの道を作るため走り出した。
作戦終了の合図は出ていないが、組織の残党など街の兵だけで十分だ。
彼らはすっかり忘れていた。
今夜現われるはずの組織のリーダー達がまだ捕まっていないことを。
「おかしいな」
キルゼは振り返った。
先ほどまで追ってきていた兵士達が消えている。そもそもの追っ手の数も少なかった。
「セシル…」
大丈夫だろうか?心配は募る。
親子ほど歳の離れたセシルは彼にとって娘のようなものだった。
実際に娘がいるわけではないし、それどころか結婚もしていないのだが、それでもそのような気分にさせられた。
街を出る。
門には見張りがいたが皆一撃で昏倒させる。
これで交代の兵達が来るまでは誰にも気付かれないだろう。
わずかな時間だが、キルゼが逃げおおせるには十分な時間だ。
近衛兵相手ではこうはいかない。
一般兵は徴兵制だが、近衛の兵士は近衛兵学校があり、入学するだけでもかなりの知力・体力が要求される。
あの制服を着るまでになるのはその中でも僅か、王を守る近衛に相応しいと認められた者のみだ。
とはいえ先ほどの兵達の中にキルゼに敵うほどの者はいなかった。
恐らくは新人の教育がてらの任務だったのだろう。
だとしたら街を抜け出し、あらかじめ示し合わせてある場所で落ち合うことぐらい、セシルにもできるはずだ。
先ほど垣間見た彼女の実力ならば…自分が囮になれていれば…
しかし…
「無事でいてくれよ」
つぶやいて辺りを窺い、キルゼは走り出した。
約束の場所はもうすぐそこだった。
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