「ここよ」

       後ろを歩くアリステアを振り返って、セシルは言った。


       その地は、ルベラから南に四グリードほど歩いた森の中心にあった。

       大の男が徒歩で一時間かかるくらいの距離が一グリードだから、午後中ずっと歩いていたことになる。

       やっとか、とわざとらしく嘆息し、空を見上げるアリステアにつられて、セシルも視線を上に向けた。

       ルベラの街を出た時には高かった日が、地平線の端でまだ沈むまいと頑張っている。

       しかし、その努力の甲斐もなく、すでにあたりはうす暗くなり始めていた。

       「何も感じられない…とは間違っても言えないな。

       どうして今までここが発見されなかったのか、隠れ里云々よりそっちの方が気になるくらいだ」

       「そうね」

       息苦しいとか、匂いがするとか、そういうものではないが、森の外と中では明らかに空気が違う。

       もちろん、他の森とも違う。

       「うまく言えないけど…空気が…硬い?」

       木々を見回しながらセシルが呟く。

       丁度木々が途切れて広場のようになっているそこは、月の光だけで十分辺りを見ることができた。

       (いつの間に月なんか出たのかしら)

       セシルは首をかしげた。

       アリステアに訊ねようと振り返る。

       彼は立ち止まって目を閉じていた。

       「同感だ。壁と言うほどではないが、進むことを…そう、拒まれている感じがするな」

       言って目を開けたアリステアは手近にあった木の幹に手を当てた。

       行動に特に意味はないし、当然だが何の反応もない。

       「で、どうするんだ?」

       「そうね、とりあえず休みましょう。疲れちゃったわ」

       「…そうだな」

       くすりと笑ったセシルにアリステアは仏頂面で返した。

       実際二人ともそれなりに疲れていた。

       思い思いに木に寄りかかる。

       セシルは風を感じようと目を閉じた。

       冷たい風が頬を撫でる。昼間の気温は日ごとに高くなっていっているが、夜となるとまだまだ涼しい日が多い。

       異常は、先ほどからの違和感以外感じられなかった。

       ここの空気にも慣れつつあったせいだろう、もしかしたらそれすらも気のせいなのではないかと思い始めたその時、

       風が頬を切り裂いた。



       「な…」

       向かいに座っていたアリステアが声を上げるのが聞こえた。

       彼らしくないな、と思いながらセシルは頬に手を当てた。血は流れていないようだ。

       「切られた…わけじゃなさそうね…」

       それは切り裂かれたと錯覚するくらいの冷たい風だった。一挙に温度を下げたその風は今も辺りに吹き続けている。

       「一体…」

       何が起こったのかとセシルが問うより早くそれは現れた。

       音も光も空間の歪みさえも無く、忽然と。

       「何者だ」

       アリステアがそれを見据える。人影のようだが、顔は暗くて見えない。

       「答えないのなら…」

       言いながらゆっくりと腰に差していた細身の剣を抜き放つ。

       刃が月光照らされ、一瞬光を放つ。

       それを見たからだろうか、影は無言で一歩前に出た。光が顔を映し出す。

       背の高い男だった。細身だろうその身体に纏うのは長い砂漠色の、ローブの様なざっくりとした服。髪型は判らない。

       全体を大きな布で覆っているからだ。右目までが隠れている。

       しかしそれでもわかるほど顔立ちは整っていた。

       「短気な方だ」

       男はアリステアの持つ剣をちらりと見て言った。

       「それなりに使えるようですが、それは私には効きません。引いた方が無難かと」

       それを聞いたアリステアは意外にもあっさりと剣を引いた。

       男の言葉が自分を侮ってのものではなく、力を認めた上での忠告だということがわかったからだ。

       「さっきの質問に答えろ。お前は何者だ」

       「私はロノ。我が尊き方にあなたたちを案内するよう仰せつかった者です」

       アリステアの問いに、にこりともせず早口で言い切る。続きは無いらしい。

       これでは何もわからない。

       「誰に、ですって?」

       セシルが訊ねる。素早くアリステアの隣に移動していた彼女はさらに一歩ロノと名乗る男に近づいた。

       「待て」

       「大丈夫よ。この人、案内人なんでしょ?」

       「問題はどこに案内されるか、だがな」

       苦々しく呟くアリステアを一瞥し、ロノが口を開いた。

       「礼を知らない人間のようですね。なぜあのお方はこんな…」

       「あなただってずいぶんよ。突然現われて警戒するなって方が無理だと思うけど?」

       セシルは苦笑した。

       いくら口調が丁寧でも身に纏う気配が剣呑だったら誰でも警戒する。

       もちろんその敵意のようなものに心当たりはない。

       「これは失礼しました。そのようなつもりはなかったのですが」

       「そう?」

       「はい、ですので一緒にいらしていただけると助かります。あなたたちをお連れしないと私が怒られてしまうので」

       すっ、と頭を下げる。上げた顔にはしかしというかやはりというか、好意のようなものは見受けられない。

       「私たち、とっても嫌われてるみたいね。…いいわ、行ってあげる。でも私だけでいいかしら?」

       「お前、俺をこんな森の中に置いていく気か?」

       呆れたような口調で言ったアリステアが、手を伸ばし、前に出ようとするセシルを押し留めた。

       仕方なく止まる。

       セシルは彼をここへ連れてきてしまったことを後悔していた。

       駄目でもともと、くらいにしか考えていなかったので、こんな微妙な状況に陥るとは思っていなかったのだ。

       彼を危険な目にはあわせたくないが、どうせ言っても聞かないだろう。

       ちらりと横目で見ると、同じようにこちらを見ていたアリステアと目が合った。

       やはり引く気はないらしい。

       何も言わず、二人は視線を前に戻した。

       「で、どこへ行くの?」

       ひとつ嘆息してからセシルはロノに訊ねた。

       「ありがとうございます。それでは…」

       ロノが手で指し示したのは森の奥だった。

       「ご案内いたしましょう。我らが故郷、カダムへと」

       その言葉に目を見張る二人を尻目に、案内人は身に纏う砂漠色を翻し、森の奥へと進んでいった。



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